「隠喩としてのCOVID-19;ソンタグ「エイズとその隠喩」より」 遠藤進平

息の深い情報を得るため、できるかぎりインターネットの接続を切り、紙の本をテーマを決めて読むことにしています。いまのテーマは「ウイルス(あるいは伝染病)」です。そのなかで、スーザン・ソンタグという批評家が書いた「エイズとその隠喩」というエッセイを読みました。いくつか、COVID-19をとりまく現状について、示唆的な箇所がありました。引用して紹介します。 引用はすべて、スーザン・ソンタグ『隠喩としての病 エイズとその隠喩』(みすず書房 富山太佳夫 訳 2012年)からです。まずは100頁から見てみましょう。

公衆衛生教育の分野ではまだおおまかな隠喩が残っていて、たえず病気が社会を侵略するという言い方がされ、病気による死亡率を低下させる努力が戦い、闘争、戦争と呼ばれる。今世紀のはじめにはこの軍事的隠喩が、第一次大戦中は反梅毒キャンペーンにおいて、戦後は反結核キャンペーンにおいて、とくに目についた。[…]

エッセイたちのタイトルからわかるように、ソンタグは結核、癌、そしてエイズといった病気たちがいかなる隠喩でもって語られてきたか、あるいはその逆、病気がどんなことの隠喩になってきたのかということを考えています。引用、続きます。

 かつては病気に戦いを挑んだのは医者であったが、いまでは社会全体である。要するに、戦争というものが集団のイデオロギー的動員のための機会になってくると、「敵」の打倒を目標としてかかげる改善キャンペーンに使える隠喩として、戦争という概念が有効になってくるのである。

かなり無意識のうちにわたしたちがCOVID19に対する言葉も、戦争に関するものになっています。ウイルスとの闘い、とかね。人類が「撲滅」に成功したウイルスはいまのところ天然痘だけで(麻疹もがんばればいけるかも)、あとのウイルスはむしろ「共存」がじっさいの落とし所にもかかわらず、です。(参考:山内一也『ウイルスと人間』岩波書店)

過去には貧困に対する闘いがあったが、それがいまでは「ドラッグに対する闘い」とか、特定の病気(たとえば癌)に対する闘いに様変わりしている。資本主義の社会では、つまり、倫理原則に訴えかける幅をますますせばめ、そうした訴えかけを眉唾ものにし、自分の行動を自己利益と利潤能力の秤にかけないのは愚かなことだとしか考えない社会では、軍事的隠喩の濫用は避けがたいのだろうか。戦争とは人々が「現実主義的に」、つまり、支出と成果をにらみながら見てゆく必要のない数少ない行動のひとつになっているのだ。総力戦では支出も総力になる。打算は無用――戦争とはいかなる犠牲もあたりまえのものになる緊急事態なのだから。

ここ、鋭いですね。 犠牲は厭わない――。これはリスクとそれに見合うリターンという計算もまったくしない(ように見える)多くの判断、具体的にいうと学校や図書館といった文教機能へのアクセスを遮断・制限したりとか、のことをそのまま説明できます。教育を受ける権利、受けさせる義務とわざわざ明記するくらいに重要度のかなり高いことがらだったはずです。

いや、満員電車を本気で規制しないあたり、じつは打算はまだまだしていて、たんに教育といったことが不急どころか不要だと前からずっと思っていた、というむきのほうが正しいかもしれません。ほんらいもつべき重要度による順序ではなく、ナメられているものから順番に、犠牲になっています。さらに続きます。

しかし病気に対する戦争は、研究にもっと熱意を、もっとお金をという掛け声にはとどまらない。近代的戦争の場合の敵と同じで、とくに恐ろしい病気が外から来る「他者」とみなされるさいの方途を、隠喩が提供するのである。病気をデーモン化する発想から、患者に罪をきせる方向への移行は必然である。患者を犠牲者とみることなど平気なのだ。もちろん無垢だからこそ犠牲者ということになるのだが、すべての関係概念を支配する鉄則によれば、無垢は罪につながる。

防疫という名のもとでなされる外国人差別、職業差別、それから患者への非難。かれこれをしたから、その結果、いや報いとして病気になったのだ、そういうストーリー――ソンタグの用語を借りれば隠喩――を、COVID-19の背後に、わたしたちは暗に求めてしまいます。とくに外国人差別に関連しては、別の箇所でつぎのようにも書いています。

疫病をめぐる平均的なスクリプトの一特徴――病気は必ずどこか別の場所から来るとすること。十五世紀の最後の十年間にヨーロッパを流行病として席捲し始めた梅毒の呼称は、恐ろしい病気を外来性のものとするのが必要であることの典型的な見本であろう。それはイギリス人にとっては「フランス病」、パリの人間にとってはゲルマン病、フィレンツェの人々にとってはナポリ病、日本人にとっては中国の病気であった。[…] ひょっとするとそれは、太古の時代に、自分たちではない者と、異質の者と同一視された悪の概念そのものに根差しているのかもしれない。メアリー・ダグラスの言うように、汚染する者は悪なのだ。その逆も真である。悪と判定された人物は、少なくとも潜在的には汚染源とみなされるのである。 [pp. 137-138]

毎年、注目されることなく多くの人の死因となっているインフルエンザと比べてなぜこうもCOVID-19は注目を集めるのか。統計・疫学的な説明は、なぜこわがる「べき」(あるいはこわがらない「べき」)なのか、はカバーできるかもしれません(大切なことではあります)。が、では、なぜ、現状、多くの、(ほとんどは統計・疫学的知識も感覚もない)ひとびとがこわがっているのかの説明にはあまり役に立ちません。ソンタグの次の文章が、理解するヒントになるかもしれません。

癌にかかっている人が癌で死ぬ確率よりも、冠状動脈血栓の人が数年のうちに心臓病で死ぬ確率のほうが高いにもかかわらず、心臓病よりも癌が怖いとされる。心臓発作はひとつの事故であって、人に新しいアイデンティティを与えるもの、患者を「彼ら」のひとりに変えるものではない。人を変身させるものではないのだ。変身させるとしたら、何かすぐれたものにであって、心臓病の患者は、不安に駆られて運動と食事に気をつける良い習慣を身につけ、それまでよりも慎重で健康な生活を始めたりする。しかし、即死に近くなるせいかもしれないが、この病気は安らかな死をもたらすとされることが多い。

 もっとも恐れられるのは、致命的なだけでなく、文字どおり人間性を奪ってしまうとされる病気である。[…] [p. 128]

移動の自由という根幹がゆらいでいる、という話もここから導けるでしょうし、さらに続く以下からは、マスクがわたしたちの社会にもたらす影響を考えることができます。「顔を傷つけ歪める」までは強すぎるかもしれませんが、しかし顔をしっかり隠しはするマスク。フランスなどは、おもにイスラム教徒女性のかぶるヒジャブを念頭において、公共の場所で顔を示すことの禁止にかなりやっきになっていたわけですが(日本でもフルフェイスヘルメットでのコンビニ入店はできませんね)、COVID-19の影響下で、ほとんどなし崩し的にヨーロッパ人は顔の一部を隠すことを容認しつつあります。ほんの少し前まで、香港のデモ参加者たちが身元をわからなくするためにつけていたマスクのもっていた機能――ここではあえて「隠喩」とも呼んでおきましょう――からは、ずいぶんと変化しているように思えます。

 小児麻痺の影響にしても怖いものではあった――体を萎えさせるのだから――しかし肉体に跡を残したり、腐らせたりすることはなかった。おぞましくはなかった。それに、小児麻痺は体にのみ影響するのであって(もちろん、悲惨なことはではあるが)、顔には出なかった。小児麻痺に対する反応がわりと適切で、隠喩絡みにならなかったのは、顔というものが特権的な地位を与えられていて、われわれが肉体の美しさと破壊を評価する際の決め手となることによるところが大きい。デカルト流の精神と肉体の分離は、近代の哲学と医学によってさんざんに批判されたにもかかわらず、顔と肉体は別という、われわれの文化の確信は微動だにしなかった。[…] われわれ自身のもつ人格、尊厳の意識にしても、顔と肉体の分離のうえに、顔は肉体に起こりつつあることとは切れている、みずからを切り離すことができるという可能性のうえに成り立っている。そしてどんなに致命的なものであっても、顔を傷つけ歪めることのない心臓発作やインフルエンザのような病気は、最悪の恐れを掻き立てることはないわけである。 [p. 131]

今回のコロナウイルスじたいは、人類ははじめて出会いました。しかし、感染症いっぱんについては、人類はいくらかの知見をもっています。その知見のなかでもとくに読むべき価値の高いものは、テレビや、SNSよりは比較的、書籍のなかにあると信じます。読むためにすこしでいいので働きかけをしましょう。自治体や図書館、議員に図書館の貸出機能だけでも再開させるよう、メールを送るなど。黙っていると読書という営みがナメられたままです。